ル・ボン・マルシェ
レース、リボン、シーツ、マットレス、ボタン、傘などの雑貨を扱うノベルティショップとして1838年にパリで創業した「Au Bon Marché」。 当初は4つの部門、12人の従業員、300平方メートルの床面積を有していた。 1852年、実業家アリスティッド・ブシコーがパートナーになり、販売計画を変更し、定価と交換・返金のできる保証を設け、広告を出し、商品の種類を大幅に増やした。 定価制は、当時乾物屋で一般的であった値切り交渉に代わるものであった。 1852年に50万フランであった店の年間収入は、1860年には500万フランに増加した。 1869年には左岸のセーヴル通り24番地にさらに大きな建物を建て、1872年にはエッフェル塔の設計者ギュスターヴ・エッフェルの協力を得て再び店舗を拡大した。 1870年に2000万フランだった収入は、1877年にブシコーが亡くなった時には7200万フランに増え、その時の店の経営は妻のマルグリット・ブシコーが続けた。 店舗面積は1838年の300平方メートルから5万平方メートルへ、従業員数は1838年の12人から1879年には1,788人へと増加した。 ブシコーは、妻が買い物をしている間、夫が本を読むための読書室、大規模な新聞広告、子供向けの娯楽、顧客に送る600万部のカタログなど、マーケティングの革新で有名であった。 1880年には従業員の半数が女性になり、未婚の女性従業員は上階の寮に住んでいた。
店舗の建築は当時としては非常に革新的で、1869年の店舗は建築家ルイ=オーギュスト・ボワローによって建設された。 ボワローの鉄工技術にアレクサンドル・ラプランシュが装飾を施した。 彼の息子であるルイ=シャルル・ボワローは、1870年代にもこの店を続け、その構造の一部をギュスターヴ・エッフェルの事務所に相談した。 ルイ=オーギュスト・ボワローの孫であるルイ=イポリット・ボワローは、1920年代に店の拡張工事を行った。
この建物は、アーサー・アンダーソンが設計したシドニーのボン・マルシェや、ブエノスアイレスのショッピングセンター、元々アルゼンチン・ボン・マルシェと呼ばれていたガレリアス・パシフィコにインスピレーションを与えている。