AlmohadsbyMaribel FierroLAST MODIFIED: 21 January 2016DOI: 10.1093/obo/9780195390155-0217
はじめに
アルモハド(Al-muwahhidun)はマスムダ人のイブン トゥマート(d.. 524/1130)は、マフディー(正しく導かれた者)を名乗り、アルモラヴィド(サンハジャ・ベルベル人)に対する政治的・宗教的運動を開始した。 アルモラヴィー朝は、擬人化主義者であり、マリキー教の教義(タクリード)を盲信していると非難された。 アルモハド帝国はトリポリ(リビア)からアル・アンダルス(イスラム教国スペインとポルトガル)を含む大西洋に広がり、イブン・トゥマールの弟子アブド・アル・ムーミン(ザナータ・ベルベル人)(524/1130-558/1163年)が支配した。彼はアラブの系譜を採用して自らカリフを名乗った。 548/1153年にセティフで敗れたアラブ人部族(スレイム、ヒラル)を取り込み、イフリキヤ(チュニジア)方面に進出し、ベルベル人部族軍を改造した。 また、タラバと呼ばれる新たな宗教的・政治的エリートの形成も開始した。 アブ・ヤスクブ(Abu Yaʿ Yusuf、在位558-580/1163-1184)とアブ・ユスフ(Abu Yusuf Yaʿ qub、在位580-595/1184-1199)は北アフリカでアルモラヴィッド朝のバヌ・ガーニヤとアユーブ朝の介入、さらに多くの内部の敵に直面しなければならず、イベリア半島でも地元の独立支配者とキリスト教徒に対抗する戦いを繰り広げた。 7〜13世紀前半、ムーミン朝は内部分裂やアンダルシアの主要都市をキリスト教徒に奪われ、またチュニジアではハフシッド(イブン・トゥマールの仲間の子孫)による自治的支配を受け、弱体化した。 668/1269年にはマラケシュにマリニード(ザナータ)が侵入し、アルモハド・カリファイトに終止符を打ち、アルジェリアではアブド・アル・ワディードが支配権を獲得した。 最近まで、アルモハドに関する研究はほとんどなく、I. Goldziher、F. Codera、É. Lévi-Provençal, R. Brunschvig, A. Huici Miranda, D. Urvoyらの先駆的な研究にもかかわらず、アルモハドに関する研究はほとんどなく、多くの側面がまだ未解明であった。 1990 年代以降、アルモハドの政治史や国家形成に関する関心が高まっている(Y. Benhima, A. Fromherz, M. Ghouirgate, P. Guichard, J.-P. Molénat, M. J. Viguera)、教義(M. Brett, M. Fletcher, T. Nagel)、貨幣学(R. Benhsain-Mesmoudi, S. Fontenla, P. Guichard, S. Peña, M. Vega)、エピグラフと芸術(P. Cressier, M. A. Martínez Núñez)、知的宗教発展(A. Akasoy, M. J. Vagel)などに関心が集まっている。 Aouad, H. Ferhat, M. Fierro, M. Forcada, M. Geoffroy, M. Marín, D. Serrano, S. Stroumsa), 内部組織 (A. al-ʽAzzawi, H. El Allaoui, M. Benouis, P. Buresi, E. Fricaud), その他の問題、たとえばモロッコ南部の運動の起源 (J.-, J. Buresi, J. Bricaud), 南部モロッコでの運動の起源,などである。P. van Staevel、A. Fili)。 また、アルモハドが東方イスラーム圏とキリスト教圏の双方に及ぼした影響など、まだまだ研究の必要な領域は多い。 これまでの研究の大半は、アラビア語、フランス語、スペイン語で出版され、ドイツ語でも重要な貢献があった。 英語による研究が増えてきたのは、ごく最近のことである
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